アンブレラ

『たぬき』の異名を持つ歴史の教師の、授業とは何ら関係のない雑学トークが、だらだらと耳をすり抜けてゆく。隣を見やると、反町が俯いて、目で熱心に活字を追っていた。珍しい。

「どういう風の吹き回しだ?」
「…この前つまごいに行ったときさ、三杉が本読んでたんだよね」
たしかに、暇が出来たとき、三杉はときどき本を読んでいた。モーパッサン短編集のときもあれば、マルクス・アウレリアスの『自省録』のときもあり、一体何冊持ってきたんだろうと疑問に思ったほどだ。
「へー。でもお前、」
反町の持ってる本の背表紙を確認した。
「どんな女捕まえる気だよ」
「もーだめ、久々に本なんか読んでも半分でギブ。やっぱ俺は、自分の直感と力に頼って彼女ゲットすることにする」
反町がそう言ってアクビをした。五限の終わりを告げるチャイムが鳴った。たぬきはまだ教壇で喋り続けていた。このクラスの奴は結構みんな真面目なので、ひそひそ喋り声こそすれ、基本的にはチャイムが鳴っても大人しく聞いている。というのに、斜め後ろ、日向さんの席から、ばたばたと教科書をしまい込む音が聞こえる。思わずにやにや笑ってしまってから、俺もそれに倣って机の上を片づけ始めた。たぬきの咳払い?俺達には聞こえないね。





戦陣を切る猛将さながらに、ダッシュで階段を駆け下りる日向さんの後を追う。
もうすっかり日課となってしまっているので、いつもすれ違う三年の主任が今日もやってるなあ、と声をかけられたが、はいっ、と短い返事しか出来なかった。日向さんと走るときは、常に全力でなければならない。最後の四段をジャンプすると、昇降口に駆け込んだ。
と同時に、ざあああああ、と、壊れたテレビのような音が耳に飛び込んできた。一瞬遅れて、目の前の状況を把握する。雨だ。俺達は同時にため息をもらした。
「ちくしょう、雨かよ」
「さっきまでは晴れてたんですけどね…」
日向さんのしかめっ面を盗み見ながら、練習、できないね、と呟くと、その眉間のしわはますます深くなった。今日は水曜で、放課後は委員会活動に当てられているため、どっちみち部活は休みだ。けれど、俺達二人の間では、誰もいない第三グラウンドにこっそり忍び込んで、気の済むまでPK練をするのが決まりだった。
「あー面白くねえ。とっとと帰るぞ若島津」
めちゃくちゃ不機嫌な顔が可愛く見えて、しばし見とれていた俺は、その一言にはっと我に帰った。
「あ、日向さん、傘!」
「いらねえ。モタモタしてっとおいてくからな!」
そう言い終わらないうちに、日向さんは外に出て行ってしまった。急いで鞄の底から折りたたみを取り出すと、走って後を追った。追いついたのはすぐだったけど、とき、既におそく。日向さんは、もうずぶ濡れになっていた。髪はぺたんと寝てしまい、学ランもスニーカーも変色している。それなのに、相変わらず背筋はぴんと伸び、力強い空気をまとい、三白眼の目はまっすぐに射抜いてくる。なんだか無性にたまらなくなって、後ろから抱き締めた。これ以上は絶対濡れないように、傘を日向さんの頭上に掲げる。
「順番逆だろアホ」
「……風邪でもひいたらどうすんですか」
「ひかねえよ。いいから離せ」
腕を叩かれて、渋々日向さんを解放した。傘だけはしっかりと、日向さんの上にキープして。そうしたら、今手に持っている傘がこの上なく羨ましく思えてきて、密かに息を、長く吐いた。怪訝そうに視線だけを向けられて、唇の両端だけあげて笑ってみる。傘が雨をはじく音が、大きく聞こえ続けていた。


                              END